2022年5月1日日曜日

寺報5月(表)―坊守エッセイ―

「今年も姫餅始まったよ~」と友人からの便りが届きました。

毎年四月中旬から五月初旬にかけてこの時期だけ営業される當麻の春木春陽堂さん。
葛城山麓で採れた生の蓬だけを使う姫餅はこの時期限定です。
出始めの四月新芽の蓬は柔らかくて優しい香りで、五月に入るとだんだんと成長した力強い蓬の味を楽しめます。
ご親族総出で作られている姫餅は大人気で、連日行列ができて午前中には売り切れてしまうそうです。

願隨寺の灌仏会(お花まつり)も以前は婦人会の皆さんが蓬を摘んできてくださり、それを杵と臼でついてよもぎ餅を手作りしていました。
蓬を湯がく香りや、まな板の上で蓬を叩く音を懐かしく思います。

お花まつりの子ども会に参加して小さな手で杵を握ってお餅をついてくれたお子さんたちはもう立派な大人になっていることでしょうが、あの日の事を覚えてくれているでしょうか。
きな粉をいっぱいまぶした緑色の甘いお餅はおばあちゃん達の願いがいっぱい詰まった最高の贈り物でしたよね。
【by坊守】

2022年4月25日月曜日

正信偈のお話 十六⑱

善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪
光明名号顕因縁

[二河白道⑧]
つまりこのお話しで表されているのはこういう意味です。

私たちの生活は貪りや怒りや煩悩に振り回されて引きずられるばかり。
また、日々を共にする友はいたとしても、正しく進むべき道を教えてくださる師( 善知識
(ぜんちしき))に恵まれることは希まれです。

そのような中であっても大切なことに目覚めることはありますが、それも生活に埋没し現状からの脱却はままなりません。

しかし、あなたを励ます力も、あなたを導く力も常にはたらいてくださっています。
だから大丈夫、ひとたび志を興したならば、迷わず進んでくださいということです。

2022年4月22日金曜日

ポンペイ展

京都の京セラ美術館へポンペイ展を夫婦で観に行ってきました。

「紀元後79年、イタリアのナポリ近郊のヴェスヴィオ山で大規模な噴火が発生、ローマ帝国の都市であったポンペイが火山噴出物に飲み込まれました。火山灰で埋没した古代の居住地には、当時の人々の生活空間と家財がそのまま封印されています。この「タイムカプセル」の中身を解き明かすべく、ポンペイでは18世紀から現在に至るまで発掘が続いています。
本展覧会では、モザイク、壁画、彫像、工芸品の傑作から、豪華な食器、調理具などといった日用品にいたる様々な発掘品を展示。古代ローマの都市の繁栄と、市民の豊かな生活をよみがえらせます。」(ポンペイ展HPより

こんな素敵な展覧会があると聞いて去年から楽しみにしていたんです。

そして行ってみると、写真撮影がOK♪ テンション上がります♪

繁栄のさなかに突然火山灰に埋もれてしまったポンペイは、その悲劇的なイメージとは裏腹に色彩豊かで活気とユーモアに満ちた町だったようです。

日常生活がそのまま封じ込められたかのような出土品の数々は当時の人々の息遣いさえ感じられるようでした。

これなんてその日のパンの化石なんですよ。

日本がまだ弥生時代でやっと稲作が始まった頃に、こんなに繊細な装飾品やモザイクの壁画があったなんて驚きです!

街にはいろんな物を扱うお店や施設があり、人々はとても文化的な暮らしをしていました。
中でも印象に残ったのは喫茶店があったこと。
日本が貫頭衣を着て石鎌で稲刈りをしていた時代にポンペイの人は喫茶店でお茶を飲んでいたのですよ。

一夜にして灰に埋もれてしまったとういう街は当時の生活そのままの姿を今に伝えてくれます。
私の今の生活がそのまま保存されて未来に人に研究されたりしたら大変。
とりあえず自室を片付ける事にします。

【by坊守】

2022年4月10日日曜日

寺報4月(裏)―住職雑感―

ロシア正教会の最高位聖職者・キリル総主教がロシアによるウクライナ侵攻に祝福を与えたことで、キリスト教界は大混乱に陥っているようです。
当然ほとんどのキリスト教者のみなさんはそのことに憤っておられ、私も同じ宗教者として心中をお察しします。

時に宗教は戦争の要因になりますが、本質は別のところにあります。
犯罪や暴力、人間関係のトラブルといった人が争う一番の理由はお金に代表される欲望。
次が恨みや愛憎。
戦争も一番の理由はやはり利害関係、そして名誉や体面です。

私たちは人を傷つけることがいけないことだと知っていながらそれを行うとき、その正当性を何かにこじつけて主張します。
損得だとは言えないから権利や正義だとか、私の願望だとは言えないから世間や信心だとかを持ち出します。
ホント、そういうのって真面目に関わっている人たちにとってすごい迷惑です。
キリル総主教の愛国心に利用される神様もきっとお困りでしょう。

2022年4月7日木曜日

『器と書』

友人である陶芸家の畠中光炎くんと彼のお母さんで書家の畠中咲菫先生の二人展へ行ってきました。

今回のギャラリーは少々辺鄙な場所でして、歩くには遠いなぁ、やれやれ…と思いつつ、蹴上の駅を降りて東山の界隈を通り目的地に向かいました。


そのように意図せず歩いた哲学の道でしたが、ちょうど桜が散る頃と重なって花吹雪がとても美しく、むしろここを歩く機会を与えてくれたことに感謝。
ご縁の有り難さを感じると同時に、自分の思いの勝手さに呆れました(笑)。

作品は『嘆佛偈』の終わりの一節「我行精進 忍終不悔(我が行は精進にして、忍びてついに悔いじ)」です。

なお、これを書こうとして気づいたのですが、行きがけの哲学の道の写真ばかり撮っていて、肝心の個展の作品の写真をほとんど撮っていません。
なんだかなぁ(笑)。

『器と書』の親子展はオルス・京で4月7日(木)から12日(火)までの開催です。

2022年4月1日金曜日

寺報4月(表)―坊守エッセイ―

願隨寺の山門にいつも寝そべっているゴールデンレトリーバーのすずちゃんは八歳になります。
顔にも白い物が目立つようになり老犬の域に入ってきました。
でも相変わらず散歩は大好きで、私の顔を見上げながらぴょんぴょんと嬉しそうに歩きます。
いつものコースで田んぼを渡る風を全身に受け止めながら季節を感じて歩く楽しい一時。
「いこうよぉ」と訴えかける瞳に負けて「しょうがないなぁ」と出かけるそんな私に、実はすずちゃんから与えてもらっている幸せです。 

最近の新聞やテレビは心がしんどくなるニュースが多く大切な事とわかっていても目を、耳を塞ぎたくなってしまいます。

理不尽に国を追われ命を脅かされるウクライナの人々は、つい先日まで私たちと同じように普通に仕事をしたり、家事をしたり、散歩をしたりと日常を生きていた人たちです。
手入れの行き届いた美しい街並みや公園を踏みつぶしながら進む戦車の映像を見ると胸がギュッとなります。
その中に乗っている人にも家族や故郷があるのでしょうに。

戦争は誰も幸せにはなりません。一刻も早く終わりますようにと祈るばかりです。
【by坊守】

2022年3月25日金曜日

正信偈のお話 十六⑰

善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪
光明名号顕因縁

[二河白道⑦]
では東岸の盗賊や野獣といった群賊悪獣は何を意味するのでしょうか。

それらは、衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大を表すのだそうです。
六根とは眼・耳・鼻・舌・身の五つの感覚と意識のこと。
六識はその六根を通して得られる認識のこと。六塵は六識の対象となる色・声・香・味・触・法(物事、あるいは理)のことです。
残る二つは、仏教では人間とそのあり方を構成する要素を五陰、色(物質)・受(感情)・想(表象作用)・行(意志)・識(知覚)の五つ。
物質を構成する要素を四大、地・水・火・風としました。

2022年3月10日木曜日

寺報3月(裏)―住職雑感―

先月、九州で暮らす母が傘寿を迎えました。
正月に妹に電話をしてどうするか尋ねると、その時点ではまだ何も考えていなかったようですが、兄妹で何ができそうかそれとなく母に探りを入れてくれることになりました。
結局、コロナの感染拡大真っ盛りで集まることもかなわないので大きな事は諦めて、妹は第6波が落ち着いたら一緒に食事に行くことに、うちは毎年贈っている花を今回は奮発して胡蝶蘭にしました。

さて、傘寿の由来は文字の見た目にあるそうで、「八十」と縦書きすると、「傘」の略字に似て見えるからなんだとか。

ちなみに仏教のシンボルには仏舎利塔、法輪、蓮の花がよく知られていますが、傘もその一つなんですよ。
傘は人々を太陽の熱や雨から守ってくれます。つまり仏教における傘は苦悩や有害な力からの保護を意味しているんです。

独り立ちするまでは親の傘の下で育てていただきましたが、実はその後も見えない傘で見守られています。
そのことに深く感謝をするのが傘寿なのかもしれません。

2022年3月2日水曜日

水平社博物館リニューアルオープン

 明日3月3日は水平社宣言の100周年です。
「水平社宣言」は、被差別部落出身の方々が自主的な運動で部落差別からの解放を目指すことを宣言したもので、被差別マイノリティーが発信した「世界初の人権宣言」といわれています。

水平社博物館もこれを記念してリニューアルオープンします。

私は県の人権のお仕事をさせていただいている関係でリニューアルオープン前に観覧できる招待券をいただけましたので、友人のお坊さんを誘って行ってきました。

以前の展示は、当然といえば当然ですが部落差別問題啓発のための内容でしたが、この度のリニューアルでは部落差別問題を中心に置きつつも、広く人権について学んでいただくための展示となっていました。
青少年にも親しみやすいように、みんながよく知る漫画や絵本も資料に盛り込まれていました。

人権問題は決して他人事でも日常生活と無関係なことでもありません。
イジメもセクハラもパワハラも性差別も犯罪も暴力も虐待も戦争もみんな人権問題です。
私は特に問題を感じないと思われている方もおいででしょうが、それは、人権の歴史の積み重ねによって社会的、法的に無自覚で暮らせるようにしてもらえているお陰なんですよ。

その歴史を知るために、そして今現在の問題を知るために、誰もが安心して暮らせる社会のために、リニューアルした水平社博物館を是非訪れてみてください。

2022年3月1日火曜日

寺報3月(表)―坊守エッセイ―

寒さの中にも少しずつ春が近づいているのが感じられますね。

思えばマスク生活も丸二年が経とうとしています。
始めの頃、マスクをしてのお勤めは息が苦しくて酸欠で頭がクラクラするわ、声はモゴモゴするわ、鼻水は垂れるわで大変でした。
お聞き苦しい事もあったのではないかと思います。

学生時代にある先生が、「あなた方もご門徒様宅のお内仏にお参りすることがあるだろうが、自分の力でお勤めしている気になったらアカンよ」とおっしゃいました。
声を出しているのは私だけれど、それは阿弥陀様の願いが自分に届いた現れであり、その願いに目覚められたお釈迦様、親鸞様が伝えて下さった言葉です。
そしてそれはそれぞれのお宅のご先祖様方が守り伝えて下さったものです。
きっと先に往かれた方々が諸仏となって導き見守って下さるので、こんな私でも安心してお勤めすることができるのだと思います。

当初は苦しかったマスクでのお勤めも、次第に肺活量が鍛えられたのか今では気にならなくなりました。

芽吹きの春、お浄土から見ていて下さる諸仏の笑顔を胸に明るい声でお勤めしてまいります。
【by坊守】

2022年2月25日金曜日

春期彼岸会のご案内

[日時]2022年 3月21日(月)     午後2時

※個別の読経は午後1時から1時45分まで承ります。

ご先祖さまを偲び、いただいたいのちに感謝しましょう

「彼岸」という言葉はもともと、生死の迷いの世界であるこの世を「此岸」というのに対し、此岸を超えたさとりの世界、阿弥陀仏の浄土を指す言葉です。
その浄土は、私たちが還っていく世界であると同時に、此岸に生きる私たちの在り方を照らしてくださる世界です。
浄土に還っていかれた亡き人を偲ぶとともに、あらためてその声に耳をかたむけ、自分の生活を振り返る大切な時として、お彼岸をお迎えしたいものです。

勤行中、焼香がありますのでご家族おそろいでお参りください。

※願隨寺門徒総会は法要終了後(午後3時頃開始予定)に執り行います。

2022年2月20日日曜日

正信偈のお話 十六⑯

善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪
光明名号顕因縁

[二河白道⑥]
善導大師の譬喩の登場人物や状況は何を喩えているのかといいますと、東岸は「火宅無常」の私たちの娑婆世界を表しています。

「火宅」とは、自分の家が火に包まれているのにも気づかず夢中になって遊んでいる子どものように、苦しみの中にあって苦しみの本質に気づかず呑気に生きている人間の有り様のことで、最近の言葉で言えば「危機意識の低さ」というところでしょうか。

そして、火に包まれた家が見る見るうちに滅びていく様を無常の世界に重ねています。

かたや西岸は阿弥陀仏の極楽浄土を表します。

2022年2月10日木曜日

寺報2月(裏)―住職雑感―

「一人でも二人、二人でも一人のつもり」とは心理学者の河合隼雄さんの言葉です。
一人でも生き生きとしている人は心の中に何らかのパートナーをもっていて、人によってそれは様々ですが、人には自分が向き合う為の誰かの存在が必要なのには変わりません。
一方、二人で生きている人は、一人でも生きる覚悟が必要で、一人でも生きていける人が二人で生きて互いに助け合うところに人が生きる意味があるということのようです。

親鸞聖人は臨終の際、「一人いて喜ばば二人と思うべし。二人いて喜ばば三人と思うべし。その一人は親鸞なり」という言葉を遺されました。
南無阿弥陀仏を称えるとき、仏の教えを求めるとき、あなたは決して一人ではありません、私も共にありますよ、というお心です。

一人暮らしを始めた息子ですが、離れていても親の心、お寺にいなくても仏さまの心が共にあることを忘れず、一人で生活する苦労の中で他人の有り難さを学んでくれればと思います。

2022年2月1日火曜日

寺報2月(表)―坊守エッセイ―

庭に薄っすらと霜が降りた冷たい朝、去年の母の日に娘が贈ってくれた紫陽花の棒だけになった枝の先に、キュッと尖がった小さな芽が出ていました。
私が寒さに縮こまっている間にも着々と春の準備に入ってるんですね。

昨年は私にとって幸せな一年でした。
社会人になった息子は「お腹すいた~」と帰宅するとその日にあった事をたくさん話してくれて、娘は傍にいて私の手助けをしてくれて、コロナで外出を控えている主人もいて、家族が揃い他愛のない会話をしながら夕食をいただくことができました。

子ども達が巣立つまでの期間限定の幸せだと解っていました。
…いたのですが、油断してました。
当たり前の日常として浸っていました。
今年になって息子が突然、「一人暮らしすることにした! もう部屋も決めてきた! 今月中に引っ越す」と。
唐突な独立宣言に戸惑う母心など置き去りにして、息子は初めてのひとり暮らしにウキウキで、あっという間に出ていってしまいました…。

そういう時期が来たと納得するしかありませんね。
後は親元を離れたことで何かしらの気づきが芽生えてくれることを祈るばかりです。
とはいえ隣町なので頻繁に帰ってくるとは思うのですが(笑)。

【by坊守】

2022年1月15日土曜日

寺報1月(表)―坊守エッセイ―

蝋梅の柔らかな甘い香りが漂う季節ですね。

蝋梅が好きだった父は境内に根付かせようと枝を貰ってきては何度も挿し木に挑戦していたのですが、結局うまくいきませんでした。
ところがこの冬、数年前にご門徒さんから苗でいただいた蝋梅が初めて蕾をつけたのです。
お父さん、願隨寺に蝋梅が咲いたよ!

先日、数年ぶりに私がお参りするお宅へとバイクを走らせておりますと、ふと「あれ?何処で曲がるんやっけ?」と道が分からなくなってしまいました。
何度か伺ったことのあるお宅なので憶えているつもりだったのに…。

運転しながら記憶を手繰ります。
そういえば、そのお宅への道は父に教えてもらったのでした。

「木でできた人しか渡れへん細い橋があるからな。それを越えて…その次の車も渡れる大きな橋のひとつ手前を左に曲がるねん。」

流れる景色に合わせてよみがえる父の声に導かれて、無事に辿り着くことができました。

「亡くなられても大切な人は常にあなた中にいて下さる」というのはこういう事なのかもしれないと感じた出来事でした。

仏さまとなっても私の生活にちょこちょこ顔をみせてくれる父です。

【by坊守】

2022年1月3日月曜日

寺報1月(裏)―住職雑感―


年賀状に添えた言葉は、江戸時代の真宗大谷派の僧侶、一蓮院秀存の詠んだ歌です。

秀存は美濃の生まれで、たいへん賢く十四歳で京へ上り、高倉学寮(後の大谷大学)に入り学僧(仏教の研究者)となった人物です。

世の中の常なきことの知らるるは仏の道に入るはじめなり」の歌のように、思いがけないことや不都合が自分自身や人生を見直す契機となります。

例えば、親や大切な人の存在のかけがえのなさは失って初めて身に染みることが多く、それをご縁に〝仏さまに手を合わせる〟心が芽生える人は少なくありません。

また、環境破壊やコロナ禍など大きな変化が押し寄せている昨今ですが、それによって大切なことが失われつつある危機感は、人間のあり方を見直す機縁にもなります。

本当に大切なものを失ってしまう前に、人として変わってはならない心と、それを明らかにしてくださる仏さまの教えを、共に大切に守っていきたいものです。

2022年1月1日土曜日

新年のご挨拶

光寿無量

新年明けましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。