2022年2月25日金曜日

春期彼岸会のご案内

[日時]2022年 3月21日(月)     午後2時

※個別の読経は午後1時から1時45分まで承ります。

ご先祖さまを偲び、いただいたいのちに感謝しましょう

「彼岸」という言葉はもともと、生死の迷いの世界であるこの世を「此岸」というのに対し、此岸を超えたさとりの世界、阿弥陀仏の浄土を指す言葉です。
その浄土は、私たちが還っていく世界であると同時に、此岸に生きる私たちの在り方を照らしてくださる世界です。
浄土に還っていかれた亡き人を偲ぶとともに、あらためてその声に耳をかたむけ、自分の生活を振り返る大切な時として、お彼岸をお迎えしたいものです。

勤行中、焼香がありますのでご家族おそろいでお参りください。

※願隨寺門徒総会は法要終了後(午後3時頃開始予定)に執り行います。

2022年2月20日日曜日

正信偈のお話 十六⑯

善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪
光明名号顕因縁

[二河白道⑥]
善導大師の譬喩の登場人物や状況は何を喩えているのかといいますと、東岸は「火宅無常」の私たちの娑婆世界を表しています。

「火宅」とは、自分の家が火に包まれているのにも気づかず夢中になって遊んでいる子どものように、苦しみの中にあって苦しみの本質に気づかず呑気に生きている人間の有り様のことで、最近の言葉で言えば「危機意識の低さ」というところでしょうか。

そして、火に包まれた家が見る見るうちに滅びていく様を無常の世界に重ねています。

かたや西岸は阿弥陀仏の極楽浄土を表します。

2022年2月10日木曜日

寺報2月(裏)―住職雑感―

「一人でも二人、二人でも一人のつもり」とは心理学者の河合隼雄さんの言葉です。
一人でも生き生きとしている人は心の中に何らかのパートナーをもっていて、人によってそれは様々ですが、人には自分が向き合う為の誰かの存在が必要なのには変わりません。
一方、二人で生きている人は、一人でも生きる覚悟が必要で、一人でも生きていける人が二人で生きて互いに助け合うところに人が生きる意味があるということのようです。

親鸞聖人は臨終の際、「一人いて喜ばば二人と思うべし。二人いて喜ばば三人と思うべし。その一人は親鸞なり」という言葉を遺されました。
南無阿弥陀仏を称えるとき、仏の教えを求めるとき、あなたは決して一人ではありません、私も共にありますよ、というお心です。

一人暮らしを始めた息子ですが、離れていても親の心、お寺にいなくても仏さまの心が共にあることを忘れず、一人で生活する苦労の中で他人の有り難さを学んでくれればと思います。

2022年2月1日火曜日

寺報2月(表)―坊守エッセイ―

庭に薄っすらと霜が降りた冷たい朝、去年の母の日に娘が贈ってくれた紫陽花の棒だけになった枝の先に、キュッと尖がった小さな芽が出ていました。
私が寒さに縮こまっている間にも着々と春の準備に入ってるんですね。

昨年は私にとって幸せな一年でした。
社会人になった息子は「お腹すいた~」と帰宅するとその日にあった事をたくさん話してくれて、娘は傍にいて私の手助けをしてくれて、コロナで外出を控えている主人もいて、家族が揃い他愛のない会話をしながら夕食をいただくことができました。

子ども達が巣立つまでの期間限定の幸せだと解っていました。
…いたのですが、油断してました。
当たり前の日常として浸っていました。
今年になって息子が突然、「一人暮らしすることにした! もう部屋も決めてきた! 今月中に引っ越す」と。
唐突な独立宣言に戸惑う母心など置き去りにして、息子は初めてのひとり暮らしにウキウキで、あっという間に出ていってしまいました…。

そういう時期が来たと納得するしかありませんね。
後は親元を離れたことで何かしらの気づきが芽生えてくれることを祈るばかりです。
とはいえ隣町なので頻繁に帰ってくるとは思うのですが(笑)。

【by坊守】