奈良県人権教育推進協議会会長の大寺和男先生に案内していただき、
「川路桜」と川路聖謨 → 野神と「よのみ(榎)」の木 → 大佛鉄道記念公園 → 北市恵比須神社 → 称名寺 → 奈良奉行所跡 → 初宮神社 → 中村直三「農功之碑」
と回る予定でしたが、天気予報の通り、開始直後に土砂降りの雨。
急遽、近くの男女共同参画センターに入れていただき、講堂での大寺先生の講義になりました。
実際にその地を訪れることができなかったのは残念でしたが、今回も沢山の地元の歴史を知ることができました。
その中から一つだけ、川路聖謨(かわじ としあきら)だけですが紹介させていただきます。
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奈良奉行・川路聖謨は、興福寺や東大寺の境内に桜や楓の木を寄付するとともに、大乗院や一条院の門跡をはじめ町人にも協力をもとめ、桜や楓数千本を植え、今日の奈良公園の基礎ともいえる事業を行いました。
この事業は嘉永2年(1849年)からはじめられ嘉永3年(1850)3月に完成しましたが、その範囲は高円山や佐保川の境まで至りました。
ほとんどの桜は世代交代していますが、その時に植えられた桜が僅かに残っており「川路桜」と命名されています。
川路聖謨は享和元年(1801年)豊前国(大分県)の日田代官所内藤歳由の子として生まれ、後に幕臣である川路光房の養子となります。
17歳で勘定所筆算吟味の試験に合格。
天保2年(1831年)には勘定組頭となり、佐渡奉行を経て奈良奉行となります。
尚歯会(渡辺華山・高野長英ら蘭学に関心を持つ人たちの団体)の有力メンバーであったことなどから、引化3年(1846年)に中央からはずされ奈良奉行として赴任。
嘉永4年(1851年)5月までの5年4ヶ月の間、様々な業績を残し、興福寺や東大寺め境内への植樹のほかにも、拷間の禁止や貧民救済めための資金作りなどがあります。
以後大阪町奉行、勘定奉行を歴任しますが、忘れてはならないことは露国応接掛に任ぜられ日露和親条約の調印に力を尽くしたことです。
これを『寧府記事』といいます。このなかに多くの被差別民衆との交流が書かれています。
身分へのこだわりが厳しかった江戸時代、奉行と被差別民衆との間で、そのようなふれあいがあったことはあまり知られていません。
と、以上が用意してくださった資料の抜粋です。
川路聖謨の本は何冊も出ていますので、みなさんも読んでみてはいかがですか。
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