また、大谷大学の宗教学の教授である門脇健先生はこのようにおっしゃいます。
「人間が人間として生きてゆこうとするとき、顔と顔を見交わすことはもっとも大切な基本的な行動ということになります。(中略)人問は、仰向けになってみんなに顔を覗き込まれることによってこの世に登場し、立ち上がっても顔と顔が向き合うような骨格になっています。さらには、死んだときにも仰向けに寝かされ、みんなに顔を覗き込まれます。死者となっても、そこに新たな関係を構築したいという願いが、死者を仰向けに寝かせるのでしょう。」
ですから私はこう思います。顔を見るという行為によって、相手は「何か」ではなく「人」になります。
顔を見るという行為によってそれは「誰か」になります。
お母さんであったり、おばあちゃんであったり。
つまり、亡くなった人の顔を見るという行為によって、それは何かの「死体」ではなく人間の「遺体」になるんです。
「死体」ではなく「遺体」。
仰向けに寝かされて、顔を見られて初めて「人間の死」になるんです。
そして、それをしっかり見てもらう。
「人間の死」を見てもらう。見たくなくても見なさいと強制する。
それによって、あなたの大切な人は死にました。これは現実です。
そして、人が死ぬということも現実です。そして、人が死ぬという事実はあなたも例外ではありません!と見せしめる。
だから、「あんたたち、ボーっと生きてんじゃねーよ!」って言われているんです。
そういうことが葬送の儀式において最も大切なこととされてきたのです。
すなわち、死に向かい合うという最もリアルな「いのちの教育」が行われてきたんです。
ですから、「人が亡くなると仰向けに寝かされるのは~、(ジャジャン)見ることを強制するため~」なのでした。
これは番組でやってたんじゃないですよ。私のオリジナルですから(笑)。
「番組で言うてた」とか言わんといてくださいね(笑)。
0 件のコメント:
コメントを投稿