2019年5月28日火曜日

インド仏跡参拝2018 カシミール編③ハウスボート

ハウスボートと言えば、土地の少ないアムステルダムで運河に浮かぶ住宅として利用されてきたものが有名ですが、こちらのハウスボートはインドが植民地時代に避暑地の別荘のような扱いで利用されていたものです。

ハウスボートへの渡し船はインドらしいパンチの効いた装飾です♪



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ですが前々回に書いたように、インドとはいえスリナガルは穏やかな気候で落ち着いた街。
静かな水面を、船頭さんが漕ぐオールのチャポン・・・チャポン・・・という音だけをさせて進むボート。
こんなゆったりとしたインド初めて・・・あぁ、気持ちいい♪(写真に写っている友人は厳ついですがwww)


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あぁ、着きましたねぇ。


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船のお尻から乗り込むと、・・・早速物売りが。はやっ!
この辺はやっぱりインドでした。( ̄▽ ̄;)


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アムステルダムのものと同様に、スリナガルの湖に浮かぶハウスボートは家一軒が丸ごと船になって全く揺れません(嵐がきたら知らんけど)。

長旅で疲れた腰を休ませるために大きなソファにゴロン。めっちゃ、エエ感じやん❤
装飾の形式に詳しくないのでその辺はあまり語れませんが、エスニックでかつ落ち着いた雰囲気の船内に和みます。

とりあえず、インドのビールといえばキングフィッシャー!おぉ、久しぶりの味~♪



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軽く食事を済ませて観光に出かけ、夕暮れにまた湖を渡りました。
夕闇の中を再びチャポン・・・チャポン・・・という音だけをさせて進むボート。
とても幻想的な風景で・・・あぁ、気持ちいい♪


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夕食を済ませて月明かりのテラスに出ると、湖を渡る涼しい風とチロチロと虫の鳴き声。
虫の鳴き声に気づけるほど静かなインドなんて、これも初めてです。


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遠くからポーン・・・ポーンと花火のかすかな音が。
お祭りか結婚式か・・・。
スリナガルいいなぁ・・・もう一日ぐらいいたいなぁ・・・とキングフィッシャー片手の夜は更けました。


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「う~~ん」と背伸びをして目が覚めるも、やはり静か・・・。
いつものインドなら人々の活動と共に始まるクラクションの喧噪で起きてしまうのに。
朝の空気もおいしいなぁ、インドじゃないみたい。

『旅猿』ばりにゴタゴタ続きだったここまでの行程でしたが(笑)、やっとゆっくりベットで眠れて快適な朝を迎えることができました。復活って感じです!


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朝日が昇ってきましたね。
さぁ、いよいよ今日から高度を上げながらのチベット旅行、本番です!

2019年5月24日金曜日

長浜別院の七百五十回御遠忌へ

以前、全国坊守研修会に参加した際に同室で仲良くなった長浜教区の坊守さんからお誘いを頂き、長浜別院の七百五十回御遠忌にお参りさせていただきました。

7時に香芝インターで待ち合わせて一路長浜へ!

10時に始まる法要に丁度間に合って御堂に到着することができました。

堂内は参拝の方々で満堂で、モニターで法要の様子を見られる大広間も満堂!


音楽法要の後ふるまわれた「いとこ煮」は早朝から坊守さん達が700食用意されたそうです。

なかなか見ることの無い他の教区の御遠忌にお会いすることができてとても良い経験をさせていただきました!
    【by坊守】

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2019年5月22日水曜日

続々 「人が亡くなった時、仰向けに寝かされのはなんで?」

また、大谷大学の宗教学の教授である門脇健先生はこのようにおっしゃいます。
人間が人間として生きてゆこうとするとき、顔と顔を見交わすことはもっとも大切な基本的な行動ということになります。(中略)人問は、仰向けになってみんなに顔を覗き込まれることによってこの世に登場し、立ち上がっても顔と顔が向き合うような骨格になっています。さらには、死んだときにも仰向けに寝かされ、みんなに顔を覗き込まれます。死者となっても、そこに新たな関係を構築したいという願いが、死者を仰向けに寝かせるのでしょう。

ですから私はこう思います。顔を見るという行為によって、相手は「何か」ではなく「人」になります。
顔を見るという行為によってそれは「誰か」になります。
お母さんであったり、おばあちゃんであったり。
つまり、亡くなった人の顔を見るという行為によって、それは何かの「死体」ではなく人間の「遺体」になるんです。
「死体」ではなく「遺体」。
仰向けに寝かされて、顔を見られて初めて「人間の死」になるんです。

pht_blg_190521.jpgそして、それをしっかり見てもらう。
「人間の死」を見てもらう。見たくなくても見なさいと強制する。
それによって、あなたの大切な人は死にました。これは現実です。
そして、人が死ぬということも現実です。そして、人が死ぬという事実はあなたも例外ではありません!と見せしめる。
だから、「あんたたち、ボーっと生きてんじゃねーよ!」って言われているんです。

そういうことが葬送の儀式において最も大切なこととされてきたのです。
すなわち、死に向かい合うという最もリアルな「いのちの教育」が行われてきたんです。

ですから、「人が亡くなると仰向けに寝かされるのは~、(ジャジャン)見ることを強制するため~」なのでした。
これは番組でやってたんじゃないですよ。私のオリジナルですから(笑)。
「番組で言うてた」とか言わんといてくださいね(笑)。

2019年5月20日月曜日

続 「人が亡くなった時、仰向けに寝かされのはなんで?」

「いつ答えを書いてくれるんですか。ずっとボーっと生きたままになるやないですか」とお叱りを受けました。
お待たせしました。では・・・

「チコちゃんは知っています。たぶん(笑)。人が亡くなると仰向けに寝かされるのは~、(ジャジャン)亡くなった人を見ることを強制するため~」
・・・どうでしょう。ピンときますでしょうか。

一般に、お葬式は亡き人とのお別れの儀式と思われていますよね。
仏教的には、それだけではなく、死を縁に仏教に出会っていただくということに重きを置きます。
しかし、宗教を問わず、民族を問わず、人類が太古から行ってきた葬送の儀式の一番の目的は、人に死体を見てもらうことにあるんです。

お茶の水女子大学の文化人類学者・波平恵美子さんの『からだの文化人類学』という本から一節を紹介させていただきます。
葬式を執行する人々は決して意図しているわけではないのだが、遺体を「見せびらかして」いるのであり、遺体は「見せびらかされている」のである。亡くなった人が生き残った人々に「見ることを要請している」、さらには、周囲の人々は亡くなった人に「見ることを強制されている」とさえいえる。
つまり、人に死体を見てもらう、それもしっかり見てもらう、見たくなくても見なさいと強制する、そういう意味があるんです。

最近は、葬送の際に遺体を列をなして運ぶということはなくなりましたが、昔はありましたね。
でも、もし運ぶだけなら数人で事足りますし、チャッチャと運んでも構わないはずです。
なのに列をなして練り歩くのには、みんなに「この人は死にました」とわざわざ見せて回るという意味があるんです。


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みんなで亡き人を見送ってあげたい。そういう気持ちもきっとあるでしょう。
でも、亡き人を見送る前提として、死を受け入れるということが必要です。
そのためにも、この人は死にました!と知らしめる必要があるんです。

例えば、戦死された時もそうですし、東日本大震災の時もそうでしたけど、遺体がないと遺族はなかなか死を認めることができません。
遺体との対面は辛いことですが、それがないと遺族の心が迷うんです。
死んだ側ではなく遺族の方が迷うんです。
ですから「お辛いでしょうが、よく見てください。間違いなく亡くなられておられます。分かりますか」「はい・・・」という確認はとても大事なことなんです。
     【つづく】

2019年5月10日金曜日

正信偈のお話 道綽決聖道難証④

道綽決聖道難証 唯明浄土可通入
万善自力貶勤修 円満徳号勧専称
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道綽(どうしゃく)の生涯を辿りますと、誕生前の十年間に遡りますが、549年に梁の武帝が殺され、中国北部では戦乱の日々が始まります。
その上、557年と翌年はイナゴの害で作物が全滅。
さらに度重なる政変で次々と皇帝が死んでは変わりました。
このような時代に道綽は生まれています。

道綽の故郷は戦火に踏み荒らされ、「人畜の死骸が相枕し数百里にわたって絶えず」という言葉が残るほどでした。
さらに大雨、飢饉で餓死者がでるわ、彗星があらわれ不安が広がるわ。
そんな厳しく不穏な世の中にも関わらず、僧侶たちは浮世離れした生活を送っていました。
これが道綽の三歳頃までの状況です。

2019年5月4日土曜日

チコちゃん風クイズ「人が亡くなった時、仰向けに寝かされのはなんで?」

NHKの『チコちゃんに叱られる!』という番組はご存じですか?
「大人のみなさん、ちゃんと答えられますか?何も考えずにノホホンと暮らしいるとチコちゃんに叱られますよ」「ボーっと生きてんじゃねーよ!」って聞いたことありません? 

お笑いのナインティナインの岡村隆史さんが「チコちゃんでーす!」と紹介して、「チコです。どぉも~。永遠の5歳です。本日もよろしくお願いいたします」という挨拶で始まります。
番組の中身は、5歳という設定のチコちゃんという着ぐるみ女の子が、大人の解答者たちに素朴かつ当たり前過ぎる疑問を「なんで?」って聞くんです。
それに大人が、「えっ、なんで!? なんで・・・」って答えに詰まると、真っ赤に巨大化した顔で、「ボーっと生きてんじゃねーよ!」の決め台詞で怒られるという番組です。

ご門徒さんも結構ご覧になっておられる人気番組なので、今年の法話の枕に『チコちゃんに叱られる!』を真似してオリジナルの問題を披露していまして、お陰様でとてもウケてます(笑)。

「ねえねえ、この中で、身内との悲しいお別れも経験してきた一番人生経験豊かな大人ってだぁれ?
それでは、すいません、ちょっとお尋ねします。
人が亡くなると、どういう風に横たえてあります?
そうですね。仰向けに寝かされていますね。・・・あれはなんで?」

ちなみに、うちの息子は「それが普通やん」って言いました。
でも横を向いていても俯していてもいいものを、私たちはわざわざ仰向けにするんです。それは何故なんでしょう?
嫁は「だって、うつ伏せだったら、眼とか鼻とかからデロデロ出てくるやん」って答えました(笑)。
確かにそうなのですが、そういう物理的なことよりも、もっと他の理由があるんです。

「チコちゃんは知っています。たぶん(笑)。人が亡くなると仰向けに寝かされるのは~、(ジャジャン)答えはまた今度~♪」
     【つづく】

2019年5月1日水曜日

寺報5月(表) ―坊守エッセイ―


年号が令和に改まりましたね。

三十年前の平成が始まった時は昭和の天皇陛下の容態が連日報道され自粛ムードの中だった為、どこか物悲しく今のようなおめでたい雰囲気は全くなかったことを思い出します。

当時私は高校三年生、その日は高校が休校になったので友人と出掛けたものの、どこへ行っても休業でやることもなく駅のベンチで時間を潰していました。
出歩く人も少なくて、まるで世の中の時間が止まってしまって、日本中が息を潜めているかのようでした。

あの頃はまだ得度もしていなくて、和裁も着付けも習っていなくて、三十年後の自分が寺に暮しているなんて考えもしませんでした。
両親に庇護される事が当たり前の生活の中で、小さな不満や屁理屈や生意気な夢を語っていたように思います。
私が気づけなかっただけで、許され、願われ、見守られていたにも関わらず…。

私の愛用の楽器はあの年に両親に買ってもらったものです。
今も変わらず両親の庇護の中にいる私です。
     【by坊守】