2024年3月1日金曜日

今月の表白 三月

敬って阿弥陀如来の御前に白して言さく。願わくは我ら凡夫、煩悩に眼障えられてみ仏の国 見たてまつらずと雖も、山野漸く花つぼみて麗しき春の一刻、遙かにみ仏の国を想い夕日沈みゆく西の彼方に浄らけき覚りの岸を願いつつ、み仏の深き恵みを偲びて、念仏もろともに謹みて聖教を読誦し奉る。

「経教はこれを喩うるに鏡のごとし」善導大師

 お経に説かれている仏さまの教えは喩えるなら鏡のようなもの。鏡は鏡の前に立つものを偽りなく映し出すように、お経を幾度も読み、その心を尋ねれば、私の偽りない心と身の事実を映し出しだしてくださいます。

 彼岸とは向こう岸のこと。古代インドのサンスクリット語のパーラミター、漢訳で「到彼岸」に由来します。
 迷い多きこちらの世界「此岸」に生きる私たちは、煩悩の川に遮られてあちらの覚りの世界「彼岸」を見ることはかなわないのですが、その川を越えて彼岸に至りましょうという仏教の教えからお彼岸の行事が生まれました。

 彼岸とは阿弥陀仏の極楽浄土でもあります。『観無量寿経』に説かれる十六の観法(心に仏法の真理を観察すること)の一つに、日没の方向の彼方にある浄土を想って浄土に生まれることを願う日想観があります。
 『正信偈』の中にもお名前がある唐の善導大師が、太陽が真西に沈む春分・秋分の日の日没にその日想観を勧めたことが、特にその時期を大切にすることにつながったようです。

 お浄土は私たちが還っていく世界であると同時に、お経と同じように、私たちの在り方を映し出してくださる世界でもあります。浄土に還っていかれた亡き人をお偲びし感謝するとともに、その方々を仏さまとしてあらためてその声に耳をかたむけ、そのお心に背いていないか、いただいたいのちを粗末にしていないか、日頃の自分の生活を振り返る大切な時としてお彼岸をお迎えしたいものです。

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