2024年6月15日土曜日

寺報6月(表)―坊守エッセイ―

 田植えを待って可愛らしい稲の赤ちゃんがベビーベッドのような苗代で元気に育っています。そんな田んぼの一画に、そこだけ季節を先取りしたような麦畑が実りの時期を迎えています。

 もう三十年近い昔になりますが、住職と結婚して初めて訪れた福岡はまさにこの季節でした。どこまでも広がる黄金色の麦畑をみて驚く私に住職は、麦が実るこの季節を「麦秋(ばくしゅう)」というのだと教えてくれました。福岡の麦畑はそれまで見たことがないくらい広くて、六月なのにそこだけ秋が広がっているような不思議な光景だった記憶があります。

 当時の私が知らなかっただけで「麦秋」は初夏の季語ですし、気象や動植物の変化で暦を示す「七十二候」では五月三十一日から六月四日が「麦秋至(むぎのときいたる)」にあたるそうです。そうした言葉ができるくらい麦もお米と同じように昔から私たちの生活の伴侶だったんですね。麦も美味しいですもんね。

 「麦秋」の次は「田水張る」。ここまで天候不順が続いてきました。自分本位な思いとはわかっていますが、豊かな実りがありますようにと、どうぞ良い雨、良いお天気をと願ってやみません。

2024年6月1日土曜日

今月の表白 六月

敬って阿弥陀如来の御前に白して言さく。源信僧都 歌に詠んで曰く。「おほぞらの 雨はわきても そそがねど うるふ草木は おのがしなじな」すなわち み仏の恵みは衆生に等しく注がるるも 報謝の心は千差万別なり。願わくは梅雨の愁いの中にも仏恩を思い、念仏もろともに謹みて聖教を読誦し奉る。

 草木の種類や育つ環境は様々ですが、雨は地上の草木を選り好みして降ることはありません。
 同様に人も各々の能力や性格、生活が異なりますし、信心の深さも異なります。それでも仏さまは教えを授かる気の有る無しにかか
わらず全ての人に届けようとされ、その慈悲も分け隔てはありません。

 さて、源信僧都は奈良の當麻に生まれ、利発さを見出されて比叡山で学ぶことを勧められ、九歳で仏門に入り、十五歳で天皇に講義をしたと伝わるほどの天才でした。
 その天才が「妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念の外に別の心もなきなり。」と、煩悩に誘われ迷う心は誰彼の差なく凡夫である私たちにとって本来的なものであり、外に特別な心、智慧、才覚など持ち合わせていないのです。そんな自分が人としてあるべき道を歩むには、私たちを分け隔てなく導き救いとってくださる阿弥陀如来と、如来が与えてくださったお念仏を頼りにするほかにないのですと自覚されました。

 どうでしょう。源信僧都ほどのお方が私を育むために注がれる〝おはたらき〟なしには生きていけません、そのことに感謝せざるを得ませんとおっしゃるのでしたら、私たちもそれに習うしかなくないですか。